【  長崎・朝倉・薩摩街道 】
H16.4.1

3月7日に九州に転居したKaMuRaです。
(おシさしぶりです。画伯!)
(思い出します。KaMuRa GalleryKaMuRa Gallery U)、ね!373。

転居の後片付けも一段落して、さて「福岡特派員」報告の第1弾をと思いましたが「イチロウ3」が報告されているので、
(いいえ気にすることはありません。ichiro3サボッテますから・・・)

私の住まいから30km圏内の
長崎街道(福岡から筑紫路を辿って肥前に入り長崎に到る街道)、
 朝倉街道(筑紫から甘木を経て豊後の日田方面に向かう街道)、
 薩摩街道(筑紫から久留米、柳川に向かう街道)」特派員
と勝手に自称することにしました。
(今回は、博多特派員とさせていただきますね。) トリアエズ。

大宰府あたりから南の福岡県、
基山から佐賀あたりの佐賀県東部、
日田・天瀬あたりまでの大分県西部と、
これも勝手に範囲を絞り気ままに報告できればと思いますが、kuma3許して呉れますか?
(まあ、広範囲ですこと!)(もちろんOKですよ)  kuma3

長崎・朝倉・薩摩街道特派員報告第1弾は、平々凡々の「桜便り」からです。

こちらの新聞やTVで「4,000本のソメイヨシノ」と大きく謳われる甘木公園が自宅から30分位と知り、
その本数の多さに驚き、期待して公園に駆けつけました。

ところがこの公園は31haもあるとする広大なもので、「4,000本の桜は何処に行ったの?」が第一印象でした。

樹齢も若いものが多く、東京の上野公園や谷中、深大寺などは別物としても、
旧住所の千葉県野田市の清水公園や車で半時間の埼玉県幸手市の権現堤の桜を毎年見ていた私にとっては、
桜に限定すれば「もの足ら無さ」を禁じ得ませんでした。

池から少し登ったところから同じ甘木市ながら秋月に向かう道路が見え、
桜が散らない内にそちらを訪れようと考えていました。


@甘木公園の池の回りの桜。
池の右手前に昭和30年にここを訪れた
高浜虚子の句碑がある。

  「風薫るあまぎいちびとなすびまく(甘木一人茄子蒔く)」

と、読めたが正しいかな?
A池の上の高台から秋月に向かう道路方向。

多くの車が上っていた。

翌日の午前中はかなり激しい雨模様でしたが、昼過ぎに急に晴間が出て、桜見物の連チャンを決心しました。


秋月は、福岡黒田藩の黒田長政の三男長興を藩祖として5万石を領する黒田藩支藩として発足し
明治まで続いた山間の小さな城下町です。

現在は九州の小京都とも呼ばれていますが、それよりも、熊本の太田黒伴雄が主導する神風連、
山口の萩で前原一誠を中心とするグループ、宮崎車之助らが主導する秋月の千城隊が相呼応して、
僅か5日間に各地で明治政府に反旗を翻した地として著名です。

こうした歴史や地理を楽しく学べるのが司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(6巻あたりから)でしょう。
一方、秋月は日本最後の敵討ちの地とされています。

吉村昭の「最後の敵討」は、明治新政府誕生直後に秋月藩の重職を務める開明派の父と母を、
守旧派の若者グループに惨殺された10歳の子供が、
苦節13年にして今は新政府判事となっていた首謀者を刺殺して漸く本懐を遂げるものの、
仇討禁止令が出された明治では殺人犯として獄に?がれますが、
明治憲法発布の恩赦で出所して一生を終えるまでを著した実録歴史小説で、
涙無くして読めないものとなっています。

オッと、今回の桜だよりの意図から外れてしまいました。
宮崎車之助が絡んだ秋月の乱や最後の敵討の臼井六郎の史跡などは別の機会にレポートすることにしましょ


(ふ〜〜、ツカレマシタ。ハイ!、ムズカシスギテ)

@甘木から秋月に向かう道は、菜の花がいっぱい。

10分もしない内に秋月。


A平日の雨上がりで、しかも桜は200本ほどだと言うのに、

花見客で大混雑。
B秋には紅葉で彩られる黒門は既にモミジの葉が

萌え出ていた。
C夕暮れも迫る中、国道を上って町を見下ろした。

桜の通りは写真の左手に隠れている。

Masaakira3、久しぶりの便りありがとうございました。東の人間は、西に興味が沸きます。
知らない土地をどうぞ御紹介くださいませ。ゆっくりとお過ごしくださいませナ。  kuma3 H16.4.6

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